うちかわOBOG座談会
一時代を築いたのは打川兄弟の絆のちから
創業100周年を記念し、当社を卒業したOBOGの皆様にお集まり頂き、むかしの様子を思い出して懐かしい話をお聞かせいただく「うちかわOBOG座談会」を開催いたしました。
出席者
安井 廣子さん
S41.6入社~ H28.10退職
(専務取締役)
高橋 邦子さん
S36.4入社~ S44.2退職
(事務係)
佐藤 祐昂さん
S35.10入社~ S38.9退職
( 整備士、板金部)
※飛入参加
小林 留光さん
S40.3入社~勤務中
(整備士、重機部)
嶌田 美奈子さん
S50.9入社~ H18.3退職
(部品課長)現監査役
半田 進さん
S43.3入社~ H24.7退職
(フロント)
草彅 正見さん
S38.3入社~ S44.3退職
(整備士、板金部)
打川 敦
部品(もの)がなければ作るのが打川の流儀
半田 私が勤務したのは昭和43年から平成24年7月までで、始めは部品課の配属でしたけど途中から板金や整備が忙しくなった時に整備部門を手伝っていました。部品課では会社が様々なメーカーの指定工場になっていたので、技術講習会などに会社から派遣されて出張したこともありました。
小林 私はまだ現役ですけど(笑)。昭和40年3月に入社して現在に至っています。仕事は建設機械とか除雪機械の重機担当をしていました。大変だったのはアスファルトフィニッシャーの整備で、最初にこびりついているアスファルトを剝がさなければならないので、当時の白いツナギ(作業服)が全身真っ黒になったもんです。ああいう仕事は今の社長が入社してからだなあ(笑)。冬の間は舗装工事がないから、オーバーホール(分解して点検・修理)を春までにやるんですけど、フィニッシャーが動かないとプラントも動かないから、アスファルトプラントのオーバーホールも極寒の中、屋外作業で春までに仕上げました。
草彅 私は中学を卒業してすぐ昭和38年3月に入社したんですが、これからは車社会じゃないかなと思って自動車整備の仕事を選びました。打川自動車に勤めながら横手工業高校の定時制に入った時に「同じ仕事をやり通す」ということを教えられたんですよね。私の仕事の内容は板金で、昔はフレームの修正とかユニック取付の補強などもやっていましたから、後年独立した時に部品がなくても何でも直すことができた。今は何でもすぐに手に入るけれども、当時は板金だって「もの」が入ってこなければ自分で叩いて直したものです。
懐かしく思い出すのは先代の社長(進さん)に連れられて玉川の営林署とか湯田町の消防署や役場に行った時のこと。ずいぶん遠くまで出張していました。湯田には北上線(当時は横黒線)に乗って、酸素も工具も担いで行ったものです。それから私は寮に入っていたのですが、新人は工場長より先に工場に入らなければならないというルールで、バイクで出勤していた工場長を横から走って追い越して行ったりしてね(一同笑い)。工場に入ったら仕事の準備、これは必ず若い者がやることになっていた。今はシャワーだけど当時は工場に何人も入れる大きな風呂があって、湯を沸かしたり薪を割ったりもしてね。70歳で板金の仕事を退職して今は高齢者施設に勤めているんですけど、やっぱり始業の30分前には出勤してしまう、どういうわけかそれが習性になっちゃって。
半田 寮には何人くらいいた?
草彅 私がいた頃は10人くらいでした。
安井 覚えてる、遠方の出身で通えない人たちが入っていて、今みたいに個室じゃなくて大きい部屋に一人一人が布団敷いて雑魚寝でしたよね?
小林 寮のおばさんがいてな、佐々木さんだったか……最初は安井さんのお母さんでした。
草彅 私が入った時は角館から3人入社していて、先輩が1人いたけど。会社を辞めてからも分からないことは打川さんに電話で聞けば教えてくれたし、そういう繫がりが退職してからもずっとあった。「もの(部品)がなければ作る」ということを学んだ。だから苦しい思い出というより楽しいことのほうが多かったですよ。
安井 岩谷さんとか怖かったでしょ、留光さん(笑)。
小林 怖かった(笑)。
草彅 岩谷さんとか加賀さん、中野さんとか厳しかったな。
半田 (職人気質で)気が短かったからな。
小林 勉さんは工場の整理整頓がだらしないからってハンマーをぶん投げてきたことがある(笑)。
草彅 そのくらいは普通だったからな(笑)。
嶌田 いやいや、普通じゃないと思う!(一同笑い)
草彅 夜になれば整備に来る末広タクシーの運転手さんがいたよな。当時の当直は毎日2人体制で、先輩はもう酒を飲んでいるから俺が折れたスプリングを取り替えたりしたな。
小林 当直の時、夕飯食べた頃に勉さんが酔っ払って歩いてくるんですよ、そして勉強を教えてもらったんだ。
嶌田 何の勉強だか分からないね(笑)。
小林 いや、自動車整備の。だから現在に至る(笑)。当時は勉さんも当直やってたから。
嶌田 そうそう、夜になってから、直してほしいと車を持ってくるお客さんが来て、父親(勉)が車の下に潜っている間は母親が作業灯で照らしてたそうです。私が小学校くらいの時に、父親も当直をやっていたので事務所に夕食を届けに行くと、昔の薪ストーブの上に一斗缶をあげてお湯を沸かして、その中に砕いた石鹸を入れて油で汚れたツナギ(作業服)を煮て棒でつついているんです。石鹸と油の臭いがまじりあって凄い臭い!
草彅 入りたては先輩の作業着もみんな洗濯しなければならなくてドラム缶で煮て棒でつついて洗ったもんです。昭和39年の新潟地震の時には工場の中庭に避難しました。当時はリフトがなく、ジャッキアップしたウマっこで支えてるんですが、これが落ちそうでうろたえた思い出があります。当時は工場にはもう入りきれないほどの車が集まってきて、工場でなく道路で分解して修理の仕事をしていた。山岡テントは今の八木橋医院のあたりにあって、近くには竹花肉屋があった。八幸にもよく行った。一番よく行ったのは、会社の近くのみのり食堂だったね。
安井 私は総務を担当していました。請求書とか昔は全部手書きで複写だったんです。役所に出すとなれば何枚もあって、かなり力を入れないと下まで写らないくらいでした。そのうちに青焼きのコピーになってすごいなと思っていたら最近はパソコン導入で便利になったなあと思います。思い出すのは昭和40年代の頃。現在の羽後交通本社があるあたりにうちの工場があって、当時は県南には羽後交通にしか自動車の検査レーンがなかったから、車検整備が終わった車を持って行って検査をやるんですけど、月に3回くらいしか検査日がありませんでした。その時は道路の片側全部にうちで整備した車とかバイクがずらっと並んで、近くの職業安定所にあふれるほど人も来ていて、その自転車の列とうちの車の大行列が重なって壮観でしたよ(笑)。当時の前郷は官庁街で、県の平鹿地方部もあって、近くには山二のスタンド、武茂製材、羽後交通、子野日商店の米倉庫、菊池輪業など、にぎやかな場所でした。
草彅 冬は今のように除雪されてなかったから、うちで整備した車を県道角の佐々木商店まで手で押したこともあったな。
安井 車検の検査日に間に合わせるために残業もよくしていましたよね。
小林 安井さんのお父さん(昊さん)はよく大鍋の料理をみんなに振る舞ってくれたな、ラーメンとかも美味かった。
草彅 出張の時に網を持ってこいって言われて、なんで出張に行くのに網なんだろうと思っていたら、途中で魚を捕るためだった(笑)。
安井 あっはっは、うちの父は料理を作って人に食べさせるのが好きだったから残業していればうどんを煮たり、納豆汁やクキざっこと笹竹の味噌汁、クジラ汁やヒロッコかやきなど、季節折々のごちそうを食べさせてもらいました。会社の敷地が広かったから羽後交通で廃車になったバスを買って漬物置場にしていたけど、味噌や醤油、漬物や昆布などいっぱい入っていました。
半田 秋田市に出張があった時に、漬けるから市場に行って鮭を買ってこいって言われて安くて大きいのを買って帰ったら、高い紅鮭のほう(を買うのだった)だと怒鳴られて(笑)。
草彅 工場には他にはないくらい機械がたくさんあって、ローラーで鉄板を曲げて車のドアを造ったりしてた。
小林 あのローラーは今でも工場にあるよ。
草彅 今の人たちはローラーのかけ方なんて知らないかもしれない。旋盤もあって指輪を作ったりもしてた。
安井 あ、分かる!幅広の指輪(笑)。真鍮ブッシュで(笑)。
草彅 そういう旋盤なんてうちにしかなかったな。
安井 だから打川自動車で整備士になった人たちからは、部品がなければ自分たちで加工して何とかして修理を仕上げた経験があったからすごく助かったって言われたものですよ、必ず代用できる何かを作ってたものね、それが一番すごいって言われる。
草彅 部品ないからできないとは絶対に言わなかった。エンジンでもミッションでも当時はばらすのが当たり前だった。今ではそっくり交換・乗せ換えしかしないけど、他の会社に行った時にエンジンブロックの鋳物溶接をやれる者がいなかったけど、私は打川で進さんから特殊溶接を習ってたからすぐやれた。だから良い経験したなと思ってます。こういう技術は手で覚えているから何年経っても忘れないんだ。昔は目で覚えろ、技術は盗めっていう感じだったから昼休みの時間には溶接の練習をしたもんだよ。今の人は解からないだろうけど。
小林 溶接やれば面(つら)の皮が剝けるんだよ。
半田 そうそう、溶接面もよく見えないからって面を外すと目をやられるんだ。
安井 あ、私、火花がきれいだなって側で溶接を見ていたら目がおかしくなって眼科に行ったことがある。見たら駄目だって言われてたのに(笑)。
(欠席予定だった佐藤祐昴さんがここで飛び入り参加、場が急に盛り上がる)
草彅 祐昴さんとは板金を一緒にやったんだ。
佐藤 板金塗装をやっていて、阿部さんという先輩は優しかったし、自分で使う道具はハンマーから当てがねから全部自分で作ってました。大ハンマー振って、場所が違うと怒られたり、懐かしいなあ。
草彅 あの時自分で作ったハンマー、まだ持っていて使ってる。
高橋 高校の時にソロバンを習っていたので事務のほうで入社しました。当時、前郷の事務所の二階で平野さんというおじいちゃんと太田さんという事務長と一緒に会計の仕事をやっていました。私は一生懸命に請求書を書きました。そして、1ヶ月に1回、千葉税理士事務所から島田さんという方が来て、帳簿を見たりしてね、そういう体制でしたね。だから私は工場の中、現場のことはよく分からないけれど、昊さんが工場長だった時、足が不自由だったので構内に回っていくのではなく、作業指示の伝票を抱えて「誰それ~!」って大声で呼び出しして指示していました。勉さんはとにかく黙々と働く人で、進さんは接待とか営業をやっていたと記憶しています。その当時は官公庁の車がほとんどだったので、パトカーや白バイが何台も来たりすると私は2階から眺めたりしていましたけどね(笑)。私が覚えている人はもう亡くなってしまったけれども岩谷さん、中野さん、加賀さん、小野さん、一岡さん、その人たちはもうとにかく毎日真っ黒になって働いてましたね。あの社長たち兄弟の連係プレーでみんなが懸命に働いていたあの時代が、今の打川自動車の一番の基礎になっていたんじゃないかと思います。あの昭和の時代がね。
嶌田 私は高校を卒業して4年くらい後に会社に入ったんですけど、最初、部品をやれと言われた時は青天の霹靂で、え、私がやっていけるのかなって不安に思っていたんです。ノギスの使い方も分からず、ミリ単位の世界なのでボルトも10×25 っていうと太さが1㎝×長さが2.5㎝のことなんですよ、そんな基本中の基本から始めたので本当にもうついていくのが大変でした。半田さんと加藤さんのお手伝いをするつもりでいて、そのうち別の部署に変わるのかなと思ってたんだけど結局部品室を任されてしまいました。そのうちフロントの仕事を兼務することになって、さらに買掛の帳簿付けもと結局3人分の仕事を任されるようになったんです。でも今の社長(敦)が入社してパソコン導入になり、パソコン教室に行かせてくれて、慣れるまでは大変だったけど買掛帳も手書きじゃなくなって助かったんです。部品はそのままずっとやっていたんですけど、部品室は昔は事務棟とは別のところにあったから真っ暗で最初は慣れなかったですよ。でもタクシーの重くて長い板スプリングを抱えて二階から運んだりね、よく落ちなかったなって(笑)。やれないって思っていることも、やればできるっていうことを会社勤めで教えてもらったように思います。
社員旅行の思い出
小林 社員旅行は1班と2班に分かれて行っていたんですよ。全員がいっぺんに行けば工場を休まなければならなくなるので。
安井 昔は当直も交代制で年じゅうやっていましたから。現在は冬期間だけだけど、24時間修理を受け付けるのは昔から現在までずっと続いているんです。
小林 行先が近場だとバスで行ったな。
草彅 常磐ハワイアンセンターには汽車で行ったんだ。フラダンスをやっている写真もあるよ(笑)。ちょうどセンターができたばかりの時で、ホテルはまだ建ってなかったから、湯本の旅館に泊まってな。
安井 だいたい一泊二日だったけどコロナ前の沖縄旅行は初めて二泊三日、北海道も行ったよね?
嶌田 あ、小樽運河見てお寿司食べた(笑)。
半田 大倉山のジャンプ場に行った時は、リフトに乗って上から札幌市内を見たんだ。
県南の自動車関連業者の多くがうちかわOB
草彅 退職してからも「打川出身」といえばどこでもすぐに分かってもらえたし、特に自動車関係の人からは信用が高かったから助かりましたよね。
安井 「うちかわ会」っていうOB会があったんだけど。
草彅 いつだったか、湯元温泉でOB会を開催したことがあります。その時は柴田さん、森本さん、田口さん、会社からは進さんが参加、佐藤祐昴さんも参加していて、すごく上手な歌声だったのを覚えています。
安井 皆さん、だんだん亡くなっていったんだと思う。最後は森本さんが3年前くらいに亡くなって。かつての打川自動車のことを何でも知っていた森本さんはしょっちゅう会社に遊びに来ていろんな話をするわけ。
半田 「うちかわ会」っていう(名入れの)寄贈されたロッカーがあったんだよね。
安井 へー、すごい。その森本さんがうちかわOB会の会長になって、日産の営業マンだったからよく会社に来てたの。
草彅 だいたい羽後日産とか秋田日産とか日野とかいすゞとか、ほとんど打川から出た人だもの、そういう流れだものな。ディーラーもそうだし独立した人たちも、田沢モーターとか荒木田自動車、中安自動車、旭星自動車とか。
安井 角館の木村製材所とか生保内の高谷林業にも行ってたよね。
草彅 今は玉川ダムになっているけど、営林署の大きい支所があったからそこまで出張で行って、進さんと舗装されてない道をジープで走ったり、トンネルなんて上から水がだーっと漏れてて(笑)、泊まって次の日は駒ヶ岳のかげの硫黄山まで登って、木の葉石とかタケノコやキノコを採って背負って帰ってきたこともありました。
歴代の社長の素顔
安井 清さんは整備をやらなかったから小林さんと接する機会がなかったかもしれないね。
小林 まあ、そうだけど、パチンコ屋では会ったことある(一同笑い)。
安井 その頃の清さんは会長で、加川さんと売掛金の集金で外回りしていたから。工場長だった父(昊)は現場のことはよく分かっていたと思いますよ。
草彅 清さんは酒が好きだったよな。
安井 進さんは飲めないので別として、清さん、勉さん、うちの父(昊)はよく飲んでいた。でも、どれほど飲んでも翌朝はちゃんと出勤していたから、今思えばすごいなと(笑)。
草彅 勉さんはとにかく仕事をする人で真面目だった。清さんを尊敬していたんじゃないかなあ。
嶌田 確かに飲んでいたけど、仕事面は尊敬していたと思いますよ。
草彅 それで進さんは営業、人づきあいの能力があった。
安井 そう、父は上に立って引っ張っていくような感じで、勉さんは仕事を真面目にやるし、進さんは営業・外回りに行くことが多かった。みんなで一気にやるんじゃなくてそれぞれの役割を果たしていたんですね、今の社長は全部をうまくまとめてくれている。
これからの打川自動車への期待
半田 今、テレビで打川の宣伝入ってるでしょ、みんなに言われるんだ、すごいなって。言われると誇らしいですよ、良いことだから。そういう気持ちをみんなに持ってもらって、みんなに知ってもらえたらいいなあと思います。
小林 まだ現役なので定年後に言います(笑)。
草彅 やっぱり打川に入って良かったなと言ってもらえる人材を育ててほしい。車屋をやる人が少なくなってきたけれども、昔は整備の打川に入れば信用があった、整備に携わる若い人が増えてほしいです。
安井 整備士になる人が全国的に減ってきているのは、やっぱり汚れる商売っていうか、あと車の構造も変わってディーラーさんに行かないと直らないケースも増えてきたからかもしれない。そういう難しい時代でも波を乗り越えてこれからも続けていってほしいと思います。
高橋 私たちが勤めていた頃はまだ車社会ではなかったけれども、今じゃ1軒に2台、3台ある時代ですよね。私は今回、打川さんがあちこちに支店を持っていることを初めて知って、すごいなあと思いました。新しい工場を私、ちょっと見てみたいなあと思って近くまで行くんですけど、いきなり行ってもダメだろうと思って通り過ぎているんです(笑)。ますますの発展をお祈りしています。
嶌田 先ほど(高橋)邦子さんが、代々の社長のことを兄弟の絆ということで話してくれて、改めてその通りだなと思ってます。創業者の打川梅治さんの自動車業に対する先見の明と、その家業を受け継いで兄弟会社を立ち上げた4人の絆、それぞれの時代を支えて頂いた社員の皆さん、そして何よりも頼りにしてくれるお客様のお陰で今日があります。このことをしっかりと未来に繋いでこれからもずっと続いて欲しいと思います。