打川自動車 創業100周年

打川自動車の100年

打川敦社長インタビュー

創業100周年という節目に、5代目社長を務める打川敦氏に昔の工場の思い出や入社直後の状況、そして活動の場を広げて奔走する地域づくりのお話を伺いました。

子ども時代の遊び場は「工場」

――どんな子ども時代を過ごしていましたか?

 「私が生まれたのは1958(昭和33)年、当時、横手工業高校の向かいにあった打川自動車の部品倉庫兼社員寮の2階でした。
 座談会にも参加してくれた草彅さんはこの寮の住人で、幼い私の面倒をよく見てくれたものです。スキーにも連れていってもらったことが何度かあります。一緒に暮らす若い工員さんがたくさんいて可愛がってもらいましたから、私の子どもの頃の遊び場はもっぱら工場だったんですね。父は生き物が大好きで、寮にはランチュウという金魚と伝書鳩がいましたし、工場では番犬としてシェパードの『ボード』を飼っていました。この番犬はしっかり教育された軍用犬で、父の「まもれ!」の命令で何人たりとも工場内への立ち入りを許さなかったそうです。ところが、忠実すぎて夜間に工場に立ち入ったお客様や会社関係者までもが『ボード』に嚙まれるという被害が多発したとか。会社の敷地には塀や囲いがなくて、シャッターも防犯カメラももちろんない時代でしたから、簡単に侵入されて鉄や銅を盗まれることが多かったらしいんです。何も悪いことをしていないのに嚙まれた人には気の毒でしたけど、『ボード』という防犯対策はかなり有効だったようですよ」

――夕方には、人がたくさん集まって賑やかだったようですね?

 「そうなんです。前郷二番町の旧事務所は、1階に事務室、奥には工員休憩室、食堂、浴室、急な階段を上った2階には当直室があって毎日2人ずつ宿直体制、24時間営業でした。工場が終業する頃になると、いろいろな会社の運転手の人たちが修理する車を持ってきて集まって昊(ひろし)工場長(当時)の自慢の手料理が振舞われてお客様も工員も「くるま談義」に花が咲くような交流会で賑わっていました」

昭和35年 工場での交流会
昭和35年 叔父「昊」と
昭和35年 「工場」にて
昭和34年 ボードと敦と進
昭和59年 工場
昭和60年 旧事務所

帰郷して入社後はスクラップの山に愕然!

――20代半ばで入社したんですね?

「横手高校から明治大学の商学部商学科に進んで、卒業後に入社した㈱新潟鐵工所に約3年間勤務した後ですから戻ってきたのは25歳でしたね。1983(昭和58)年に帰郷して打川自動車に入社した頃には子会社で㈲三協工務店という土木工事の会社もあったので、それまでは無縁だった理系の土木施工管理技士の資格を取得して、道路舗装など土木工事を兼務で担当した時期もありました。この経験も後に、アスファルトフィニッシャーやアスファルトプラントを手掛けるきっかけになっています。打川自動車は男兄弟4人で創業した兄弟会社で、その次の世代として入社した私は、父をはじめ、伯父たち、先に入社していた従妹たちから期待感を持って温かく迎えられたことを覚えています」

――工場は懐かしく感じたのでは?

「子どもの頃に遊び場として親しんでいた工場は以前の前郷の工場です。昭和49年に現在の地に移転新築されてますから、ちょうど建築後10年を経過したあたりで、約1700坪の広大な敷地の大きな工場に変わっていました。ですが、スクラップ屋と見紛うような山積みの廃車、油の浮かんだ水溜まりや未舗装で泥だらけの構内、乱雑でうす汚れた事務所などに驚きました。おりしも日本海中部地震のあった年で、もう昭和も後半に差し掛かっていましたけど、一部上場の機械メーカーで整然とした構内や事務フロアを目にしてきただけに、工場環境の改修が喫緊の課題だと強く感じたんです。もはや昭和の町工場感を引きずる時代じゃないだろうと――。構内のスクラップの山は、部品がなかなか手に入らなかった時代に廃品を加工するなどカスタマイズして使っていたこともあって、当時の経営陣にとっては、『ゴミではなく宝の山』だったのでしょう。惜しむ声も少なくなかったんですが、約6年後には構内舗装・排水路の整備をして、同時にスクラップを全部処分しました。宝の山を手放すことへの不安や寂しさが相当あった様子でしたけど、もう心を鬼にして(笑)。
 そういえば1980(昭和55)年に当社の経営が危ないという噂が流れたことがあって、これを打ち消す意図も含めて、古かった木造の小型工場を鉄骨で新築することにしたそうです。大型工場・小型工場とも、現在まで屋根と壁の張り替え、重量シャッターは交換しましたが、約50年経った今なお完璧な配置(レイアウト)ですし、何回となく豪雪被害に見舞われてもびくともしない鉄の柱や梁の堅剛さに感心します。その当時の経営陣の先を見る目に驚くと同時に感謝に堪えません」

4兄弟の会社から新たな4本の柱へ

――社長に就任して心境の変化は?

 「2002(平成14)年には代表取締役専務になって、創業80周年行事や秋田事務所の新設などを担当していましたので、先代社長である父の死去により2006(平成18)年2月に社長に就任することになりましたが、大きな戸惑いはありませんでした。
 当社の社章は菱形の中にアルファベットの花文字のUが入っているんです。菱形は兄弟4人の団結を意味していて、この会社を4本柱で支えていくという願いが込められていたそうなんです。間違いなく以前は『打川兄弟社』だったんだと思います。でも私が引き継いで次の世代に移ってからは、この菱形の4本を【会社】【お客様】【地域】【社員】の4つの要素と解釈して、この『四方よし』の考えを会社の基本理念にも盛り込んでいます。4兄弟が堅固なレールを敷いてくれて後を受け継ぐ我々は順調にそのレールの上を走らせてもらった。けれども、レールは定期的に手を加えたり新しいものと交換したり、時にはルート変更もしなければならない。我々の仕事ぶりはまた次の世代を受け継ぐ誰かが評価してくれるはずですから頑張っていきたいですね」     

――そういう意味でも新たな事業の一つとして不動産賃貸業があ りますね?

 「2008(平成20)年に、横手駅西側の国道13号線交差点にある賃貸店舗とその用地を取得して『不動産賃貸業』という新たな事業ジャンルを始めました。経営資源の安定という観点から本業以外においても安定した収益の見込める事業の展開は、新たな投資による不動産取得とその減価償却、賃貸収入によるキャッシュインが業績に大きく貢献しました。昨年2023年には、日本トップクラスの人気メガネブランドJINS(ジンズ)横手店の新築出店、今年2024年にはマクドナルド13号横手店を移転、11月の開店を目指して現在新築工事中です」

当時の社章
現在の社章

観光振興で横手を活性化

――社外でもいろいろな役職に就いていますね?

 「青年会議所活動にも情熱を傾けていた1990(平成2)年ころから、横手市の地域づくり運動に関わるようになって、1996(平成8)年に㈱アクト・ライズというデベロッパー会社をJC有志と設立して社長に就任しました。アクション(行動)とトライ(挑戦)とライジング(上昇・成功)が社名の由来です。㈱アクト・ライズは地元商業の活性化が最大の目的で、横手インターチェンジ周辺の新商業地で店舗用地を開発・賃貸して、その後、駅西地区にも事業用地を取得しました。2010(平成22)年には、ホテル『クォードインyokote』をオープンさせることができました。このアクト・ライズの会長として、事業の後ろ盾になってくれたのが奥山ボーリング㈱の前社長、奥山和彦さんです。

平成22年 ホテルクォードイン横手竣工

 自動車など機械の好きだった奥山さんは、昭和30年代から父の進と親交を結び、以来家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いたこともあって、私を公私共に支えてくれましたし、様々な場面で行動も共にする機会が多かったんです。2002(平成14)年に奥山さんが横手市観光協会会長に就任すると私は副会長に、2006(平成18)年に奥山さんが羽後カントリークラブ社長に就任すると私は取締役に、2010(平成22)年に奥山さんが横手商工会議所会頭に就任すると私は専務理事にと、折々でby the sideの要職に抜擢して頂きました。横手市観光協会は奥山会長のあとを受けて私が2008(平成20)年に就任して、今年5月まで16年間会長職を務めてきました」

――横手やきそばの知名度は全国区に躍り出ました

 「数年間の準備期間を経て2009(平成21)年に開催した『B-1グランプリinよこて』では実行委員長を務めて、2日間で27万6千人を
集客しました。そのイベントで横手やきそばはグランプリに輝き、マスコミでも多く取り上げられました。もともと戦後にお好み焼きの屋台から生まれた横手やきそばですが、これを機にB級グルメとしての人気を不動のものにしたと思います。

平成21年 B-1グランプリ

 また、現在も伊丹空港や大阪城、東京タワーなどで開催されている出前かまくらは2002(平成14)年から始まったんですが、2010
(平成22)年には韓国の人気ドラマ『アイリス』の秋田ロケでかまくらが注目されて、ソウルに出前を実現させて初の海外進出を果たしました」

平成22年 ソウル出張かまくら
令和5年 大阪城出張かまくら

――観光強化策を次々と実現させた原動力は?

「大沢葡萄ジュースは、横手市大沢地区で収穫された完熟ブドウを搾った濃厚なジュースです。横手市観光協会ならではの強みを持つ独自性の高い商品で、プライベートブランドとして開発に成功しました。観光協会で長く物産マネージャーを務めていただいた小棚木征一氏の努力によるところが大きいです。2005(平成17)年に2500本の生産量でスタートしたのが昨年(令和5年)は3万本を生産出荷販売するまでに成長して、自主財源として横手市観光協会の財政の柱になっています。また、2015(平成27)年には、横手南小学校を会場に3Dプロジェクション・マッピング『雪見の夜』(かまくらレトロ浪漫)を横手商工会議所の主催で実現させました。雪まつりの期間中ということもあって、多くの観客が訪れて幻想的な映像を楽しんでいただけました。

平成27年 3Dプロジェクションマッピング「雪見の夜」

2012(平成24)年には秋田県総合政策審議委員に就任して、2年の任期を終えた2014(平成26)年にはその委員会の観光政策部会長を務めるなど、秋田県の観光政策の立案に携わるという経験もしました。また、2012(平成24)年6月までの1年間、秋田魁新報社のコラム執筆を観光協会会長として情報発信の一端を担ったこともありました。

2010(平成22)年12月には、横手商工会議所の専務として横手コミュニティーFM放送の会社を設立して同社の専務に就任しました。翌年4月に開局した「横手かまくらFM」では、直前に東日本大震災が発生していたので臨時災害FMとして開局前から緊急の災害支援放送を実施したんです。非常事態でしたから!多くの支援が必要だと判断して行動することに迷いはありませんでしたね。こうした色々な活動の原動力は、そうですね・・・、『横手愛』でしょうか(笑)

 

――地域のために活動の幅を広げていますが、今後の目標は?

「温暖化が原因とされる昨今の異常気象、昨年夏の異常気温や集中豪雨による洪水被害、地球温暖化対策は待ったなしの状況です。自動車や重機械など、エンジンがあり化石燃料を消費して温暖化ガスを発生させるものを長く事業対象にしてきた当社は、二酸化炭素の発生を削減し、2050年までにカーボンニュートラルを達成しようとする脱酸素活動をあらたな使命ととらえ、秋田県の推奨する『秋田SDGsパートナー』に2023年9月登録しました。
 持続可能な社会の実現を目指し、地域による資源循環システムを構築することにより脱炭素化を推進して地球温暖化の抑止に資する事業分野への取り組みを目指しています。」